キリストを乗せた “ ろばの子 ” ルカの福音書19章29 – 31節

みことば解説

『 オリーブという山のふもとのベテパゲとベタニヤに近づかれたとき、イエスはふたりの弟子を使いに出して、言われた。「 向こうの村に行きなさい。そこにはいると、まだだれも乗ったことのないろばの子がつないであるのに気がつくでしょう。それをほどいて連れて来なさい。もし、『 なぜ、ほどくのか。 』 と尋ねる人があったら、こう言いなさい。『 主がお入用 なのです。 』 」 ( ルカの福音書19章29 31節 )

このルカの福音書19章に書かれている出来事は、キリストを信じるということの本当の意味・意義を教えています。イエスは、この時、神のみこころを実現するためにエルサレムで、十字架にかかるためにエルサレムに入城されるために、このろばの子を必要としていました。それは、イエスご自身がどんな存在であるかを示されるためです。

 そのためにイエスは、このろばの子を必要したのです。では、このろばの子は、どんなろばの子だったのでしょうか?それは、聖書に書かれているように、“ まだ誰も、乗ったことがない ” というろばの子でした。つまり、まだ誰の役にも、立ったことがないろばの子です。

 つまりこのろばの子は、誰の役にも立ったことがないという人間の評価に繋がれていたのです。私は多くの人の相談やカウンセリングをさせ頂きましたが、人間の最大の問題は、自分であることが苦痛ということです。ところが自分であることが苦痛であっても、他の人をやることはできません。

しかし、その自分が苦痛であるという原因は何でしょうか?もちろん身体的なことが原因であることもあると思いますが、私のところにカウセリングを受けに来られる方は身体的なことではなく、精神的なこと、あるいは人間関係的なことが多いです。

そして、その多くの原因が自分も、含めた人間の評価によることが多いです。しかし、イエス・キリストという方は、私たちを唯一、この人間的な評価から、解放することができる方なのです。

 このイエスは、この人間の評価に繋がれたろばの子を解いてくるように、弟子たちに言われました。それはイエスの入用に応えるためです。このろばの子が主の入用に応えるためという存在理由を与えることができたのは、このイエス・キリストだけです。もし、今、このろばの子が生きていれば、唯一、キリストを乗せたろばの子として、超有名なろばになっていたでしょう。

  そして、この出来事こそ、キリスト信仰とは何であって、何でないかを現わしている典型的な例の一つと言えます。なぜなら、キリストだけが、このろばの子の存在価値を知っていたように、私たち一人ひとりの存在価値を最も、知っている方であることを現わしているからなのです。

  そして、それは私たち一人ひとりが、イザヤ書43章3節に、「 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。 」 と書かれているように、私たちの存在価値を最も知っておられるキリストの目には、高価で尊い存在であることが現れるための生涯となるように、私たち一人ひとりを愛してくださっている方であることを知るように招いておられるのです。

  このキリストに愛され、このような生涯となるように招かれているお一人お一人の上に、このキリストの祝福がありますように!

特集記事

コメント

この記事へのトラックバックはありません。

TOP