私たちは “ 自分の信仰 ” をどう捉えているだろうか?うまく生きていくためという “ 内在的信仰 ” か?見えない世界を受け取る “ 超越的信仰 ” か?
トマスは “ キリストの傷跡 ” を見なければ信じないと言った。これは “ 内在性 ( internality ) ” 。でも、キリストと出会った時に、 『 わが主、わが神。 』 と告白した。これは “ 超越性 ( transcendency ) ” です。
奇跡のしるしのような “ 目に見えるものしか ( 自分が理解できたり、納得できることを根拠として ) 信じること ” ができなかったトマスも、復活した主イエスと出会うと、「 わが主よ 」 と告白するまでに変えられた。決してトマスは不信仰ではなかった。小さい信仰を持っていただけだ。トマスは疑い深かったわけではない。目に見えるものしか、信じられませんでした。
私たちも、そうです。小さい信仰しか、持てないものです。では、この信仰って一体私たちにとって “ どういうもの ” でしょうか?信仰は “ 自分から発しているもの ( 内在的なもの ) ” ですか?それとも “ 神から受けるもの ( 超越的なもの ) ” ですか?信仰は “ 光 ” ですか?それとも、 “ 闇 ” でしょうか?何となく、信仰というと、上向きな、光に向かっていく輝かしい光で、力強く信じなくてはいけないというような “ ニュアンス ” があるように思います。
( ※ ローマ人への手紙11章36節、Ⅱ コリント人への手紙5章18節 )
でも、そう理解していると、時に辛くなったりしませんか?信仰が弱くなったとき、神が見えなくなったとき、どうしても前を向けなかったとき、トマスのように弟子の仲間と一緒に入れないような時だって、私たちにはあります。でも、そんなときにキリストは私たちをしっかたりしません。そんな弱い信仰を責め立てたりはしません。トマスに対しても、『 見ないで信じるものになりなさい。 』 と言われました。それは、トマスが持っている小さい信仰を励ます ( 引き上げる ) ことばでした。
信じる者になりなさいということばは “ 今、持っている信仰 ” を保ち続けなさいという意味です。キリストがともにいて、私が成長させてあげますという約束です。私たちはこの小さな信仰を主の前に持ち続けていくのです。信仰を立派にしてから主の前に出るとか、信仰を大きく、揺らがないものにすることが目的ではないのです。
私たちの信仰は “ 主の偉大さ ( 偉大な主 ) ” を認めるためにあります ( 超越的信仰 ) 。 私が死に、主が生きるためです。そこを暗闇だと表現した人がいます。16世紀に生きた十字架の聖ヨハネという人です。『 信仰とは人間にとって、暗夜のようなものである。 』 それは、この暗夜が暗ければ暗いほど、そこにいる人間は光のまぶしさが見えるというのです。この闇は決して悪い意味では用いてはいない。 ( Ⅰ 列王記8章12節 )
不足するという “ ギリシャ語のスコトス ” という言葉ではなく、光が強すぎで目がくらむ状態という意味を表わす闇、“ グノ-フォ
ス ” という言葉で表現している。十字架の聖ヨハネは人間はずっとこの暗夜にいるとは言ってはいないし、このステージを悲観的に
見ていない。信仰の初期段階として定義している。
そして、いつしかこの光のうちに留まることができると言っている。私たちが自分の信仰を考えるとき、信じ続けることとしての力ではなく、まったく主の前に主がいない絶望を持って暗やみに立ち、主からの光を待ち望む私たちの信仰の形と見てもいいのかもしれません。それは、目に見えるものしか見えなかったトマスのように、不安で湖に沈んでしまったペテロのように弱い私たちも、主が強めてくださるということを信じていく力かも知れません。
トマスにも、キリストは “ 責める言葉 “ ではなく、“ 愛のことば ” として信じる者になりなさいと言いました。ペテロに対しても沈みかけるペテロを手を出して、抱き寄せました。イエス様は私たちを愛していてくださっています。それは、必ず私たちを導いてくださっているということではないでしょうか?ここに “ 超越的信仰 ” があります。
真実 ( 真理 ) は “ 超越性 ” にあります。 “ 自分に合う都合の良い価値観だけ ” を信じていく生き方 ( 内在的信仰 ) はどうでしょうか?真実であるキリストが私たちを導く生き方、これこそが “ 超越的人生観 ( 超越的信仰 ) ” です。しかし、超越性を否定された “ ポストモダンの現代 ” には、内在性の中にしか人生がないわけです。
となると、内在性の中に真実を見つけなくてはいけない。でも、内在性にあるのは真実 ( Truth ) ではなく、事実 ( Facts ) 。自分の体験の中にしか真実を見出せなくなる。だから見えない ( 超越している ) 神様を見失う。信じたのに、どうして “ 成功 ” してないのか?上手くいかないなんて、“ 神はいないのか ” となってしまうわけです。それゆえ、真実なんてどうでもいいとなる。これが “ 内在的人生観 “ 。神からいのちを頂いて、生かされて生きる。これが超越的人生観 ( 超越的信仰 )がもたらす “ 生き方 ” です。
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